
((株)リバネスサイエンスブリッジライター:設楽愛子)
私は大学で海の生き物について遺伝子レベルで解析する研究をしています。先日、同じ大学でクジラの生態調査を船に乗って行っている友達と研究の話をする機会がありました。
今まで、海の生態調査というのは実際に船に乗り、目視調査や捕獲調査といったような方法で行われていました。もちろん、現在でもそのような調査は非常に重要です。海の生き物やその群れの行動は毎年調査され、海の資源管理や環境変動のデータとして蓄積され、解析されています。しかし、広い広い海の中を隅々まで調査を行うことは非常に困難です。特に海の中は上から見ることもできませんし、陸と違って動物の足跡や糞などの痕跡も残りません。ですから従来の調査で得られる情報というのは、しばしば情報量や正確さという部分で不十分なものと見なされてしまうことがあります。
生き物の生態を正確に把握することは、適切な資源管理に不可欠なこと。見えない海の中について、より正確な情報を得るためにはどうしたらいいのでしょう?
地球上で一番大きな哺乳類であるクジラ。現在地球上に生息する80種類以上のクジラの中で、もっとも一般的な「クジラ」としてイラストや写真になっていたり、ホエールウォッチングの対象として盛んなのは大きな胸びれが特徴の「ザトウクジラ」という種類です。ザトウクジラはヒゲクジラ類に属し、体長15m、体重30tほどになる種類です。広い海を北から南に半年かけて回遊を送っています。その移動距離は1年間に1万km以上!分布は北半球の海にも、南半球の海にも広がっています。
これだけの距離を移動し、広い分布域を持つのに、それぞれの半球に住む群れの間に交流はほとんどありません。このように交流のない群れのことを「系群」と言います。夏、北半球に棲むザトウクジラの系群は北極方面、南半球のザトウクジラの系群は南極方面に移動し、餌を食べて過ごします。冬になると赤道の近くの暖かい海にそれぞれ移動して子育てをしているのです。長年の目視調査や捕獲調査から、その中でも北半球ではさらに2種類の系群が存在することがわかりました。
でも先ほど言ったように目視調査や捕獲調査では正確さに限界があります。この北半球のクジラの系群は、本当にお互いに出会うことなく生活しているのでしょうか?
クジラの生態を調査している研究チームは、目視調査や捕獲調査の結果を裏付けるため、違う調査調査方法に挑戦しました。実はその謎を解く鍵に、私が研究しているミクロな世界、遺伝子解析が深く関わっているそうなのです。ザトウクジラから遺伝子を取り出す方法には、ジャンプするという特性を生かして、このジャンプしたときにはがれ落ちる皮膚の欠片を採取する方法、また調査中に見つけたクジラから皮膚を少しだけ採集する方法などがあります。
このときに使ったのは遺伝に重要な核のDNAではなく、ミトコンドリアDNA。ミトコンドリアは私たちの体内でエネルギー産生や呼吸代謝という生きるために重要な働きをする小器官のことです。このミトコンドリアDNAには、核のDNAと異なる特徴があります。1つは、ミトコンドリアDNAが母親からしか伝わらないこと。もう1つは、核DNAよりも5~10倍の速度で遺伝子の中の塩基配列が変わっていくことです。
遺伝子の変異する速度が速い、ということは、核の遺伝子では違いが見られない、同じ種内で起こる小さな遺伝的な違いも見分けることができます。北半球のクジラの2つの系群も、本当に長い間群れの交流がないのであれば、それぞれのミトコンドリアDNAには塩基配列に特徴的な違いが生まれているはず。そう考えた研究チームが実際に遺伝子を調べてみると、群れの特徴を見分けられる遺伝子の領域が見つかりました。
結果として、ザトウクジラのミトコンドリアDNAの塩基配列は12種類に仲間分けすることができました。このうち北太平洋では5種類の異なるミトコンドリアDNAをもつ個体が確認できましたが、北大西洋のザトウクジラで北太平洋のザトウクジラたちと同じタイプを持つものはいませんでした。つまりこの北大西洋、北太平洋のクジラは繁殖で関わるようなことがない、2種類の系群であるということがわかったのです。
そのうえ、驚くことに、同じ北太平洋の中でもさらに決まった海域を回遊し続ける3種類の系群が存在していたのです。したがって、同じ北半球に棲むザトウクジラの中にも、お互いに関わることなく生活している系群が何種類か存在するということがわかりました。海の資源管理や海洋環境の保全という視点で見た時、すべての系群を把握していくことが不可欠になります。なぜなら一カ所のクジラの群ればかりを管理していたら、気づかぬうちに他方のクジラがいなくなってしまったなんてことが起こりうるからです。
広大な海の中で悠々と泳ぐクジラ達。その生活には、私たちの目には見えないルールが存在していました。そして、その鍵を握っていたのは小さな小さなミトコンドリアDNA。普段ミクロの世界ばかりを研究している私にとっては、大きな海を理解するためにDNAが利用されていることに驚いてしまいました。
海の中はまだまだ不思議や謎がたくさんあります。これからも私の友人が行っているように、船に乗った調査で得た情報をもとにたくさんの不思議や謎は紐解かれていくでしょう。
一方で、私が研究しているような、遺伝子を使った調査も、海を科学的に理解するための重要な方法となることが今回の例でわかりました。海を科学的に明らかにしていくことで、私達は海の底知れぬ不思議に更なる興味を掻き立てられたり、海との付き合い方を考えさせられたりしてきました。こうして広い広い海を科学的に正しく知るためには、たくさんの科学者たちが様々な方法を使って調査した結果を総合的に判断し、解析していくことが非常に重要なのです。
参考文献
Nature March 1990 Vol.344 letters to nature
Influence of seasonal migration on geographic distribution of mitochondrial DNA
haplotypes in humpback whales
C. S. Baker et. al.
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さらに詳しい解説は本やウェブ上においてたくさん公開されているので、興味のある方は調べてみてください。とてもおもしろいと思いますよ。
○クジラポータルサイト